前回までは、思考の正体はなんなのかというお話でした。
- 思考とは脳内を流れる電気信号である
- 電気信号は光である
- 光はエネルギーである
- エネルギーは物質に変換される
- つまり思考は現実化する。
という若干、暴論と言えなくもない論理展開でした。そしてそもそもの前提条件である「1.思考とは脳内を流れる電気信号である」という点に、拭い難い疑問が残るのです。今日はそんなお話。
思考はただの伝達情報なのか
思考とは脳内の電気信号である。それは確かにそうでしょう。しかし果たしてそれで思考のすべてを説明できるのでしょうか。それは言い換えれば、電気信号のみで思考を再現できるということになります。
ざっくりと思考の流れはこのような感じ。
では脳がコンピュータに、記憶がデータベースに置き換わった時、それは思考といえるのでしょうか。私たちは何か、重大な要素を見落としているのではないでしょうか。
たとえば、思考が言語に変換される。言語は発声され、空気の振動という物理的な現象になります。歩く、座る、立つ、打つ、道具を使う。思考が筋肉を動かし、動く筋肉は運動となります。思考から物理現象への変換。考えてみれば不思議です。
あるいは、先日もお伝えした脳内物質の分泌。快/不快という思考は、ダイレクトに体に変化を及ぼします。電気信号が物理次元に反映される。その中間に、何がしかの見えざる力が働いているのではないでしょうか。
メアリーの部屋
「メアリーの部屋」という思考実験があります。1982年にオーストラリアの哲学者フランク・ジャクソンにより提唱されたこの実験。ざっくりというと以下の通り。
この世のすべてを理解するスーパー科学者・メアリーさん。彼女はあらゆる現象の原理・理屈を知っている。
たとえば「赤い」という状態について、その光の波長やその色を目にした時の人間の脳内の感覚を余さず説明することができる。
しかし彼女は生まれてからずっと白黒の部屋の中に住んでいるため、実際に「赤い色」を見たことはない。
では、生まれてはじめて部屋から出て赤い物を目にした時、彼女には何か新しい発見があるか。
多くの人はおそらく「ある」と考えることでしょう。科学者・哲学者の間でも、新たな発見は「ある」という論が優勢のようです。
ではその新たなものとは何か。体験でしか得られない、知識とは異なる何か。これを仮定したものが「クオリア」です。
クオリアの存在
心的生活のうち、内観によって知られうる現象的側面のこと、とりわけそれを構成する個々の質、感覚のことをいう
とあります。なるほど、わからん。
内観とは、つまり主観のこと。硬い鉄を触った時の手触り、音、質感、雰囲気と、柔らかいゴムを触った時のそれの違いと言えば良いでしょうか。「ぽい感じ」と言えば良いでしょうか。
つまり脳内に電気信号として流れる情報だけではない、もっと主観的な、個人的な感覚というものが、思考を構成しているのではないか、ということです。
クオリアの存在は強く認識されているものの、その定義や科学的検証はなされていません。しかしこのクオリアこそが、人間を人間たらしめている要素、コンピュータに再現できない重要な部分であるのです。
さて、そんなクオリアの存在は、引き寄せにどう関わってくるのでしょう。
次回はそんなお話です。
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