[外堀から埋める03]量子論の多世界解釈

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多世界解釈とは?

「波」と「粒」という2つの特性を同時に持つ「量子」。無理やり理解する方法として「量子は可能性の状態で重なり合って存在し、観測すると確定する」とする「コペンハーゲン解釈」が主流となっていることを前回お話しました。

しかし主流というだけで、これが明確に実証されたわけではありません。信じるに足る実験結果があり、それを解釈するとこうなるよ、という仮説です。

そして仮説は「コペンハーゲン解釈」だけではありません。地味なものからトンデモ理論まで、実にさまざまな解釈が提唱されています。そんななか、「コペンハーゲン」には及ばぬものの、それなりに支持を集めているのが「多世界解釈」です。

読んで字のごとく、「多世界」つまりパラレルワールドの存在を前提とするこの解釈。といっても、語感から想起されるほどはぶっ飛んだ説ではありません。

コペンハーゲン解釈」によると、「量子」は存在する可能性と存在しない可能性が重なっている。ならば、それを観測する人間も、「量子」を見ている(=存在)可能性と見ていない(=非存在)可能性が同時に重なっている、ということ。でも私たちの体は別に重なっていません。なぜならそれは、他の次元にある知覚できない世界であり、観測するごとに私たちはそのどれかを選んでいるのです。

つまり、多世界というワードではありますが、「量子」の世界に適用される「コペンハーゲン解釈」を、私たちの生活レベルのサイズにまで適用したのが、この「多世界解釈」というわけなのです。

図にしてみると、こんな感じです。

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多世界解釈への疑問

このように理論的には、そこまで革新的というほどでない「多世界解釈」。しかし物理学者たちが大真面目にこの解釈について議論しているというだけでも、私たちにとっては意外に思えます。

「そんな世界があるわけがない」

自らの常識に照らし合わせて、そう言ってしまうのは簡単です。しかし自分よりもずっと知見に富んだ学者が、物理的背景に即してその有無を議論している最中に、ただ感覚的に「ない」と判断してしまうのはあまりに短絡的でしょう。ない、と決めつけるに足る知識もまた、私たちは持ち合わせていないのですから。

しかし、それでもやっぱり感覚的に理解しがたい。とくにその感覚を後押しするのは、「意志」の存在ではないでしょうか。

世界が無数に枝分かれしているなら、今、このモニターを前にして、この問題について考えているあなたは、なぜこの世界を選んだのでしょうか?

そして少し前に、パソコンを開くことを選ばなかったあなたはどこに行ってしまい、今、なにをしているのでしょうか?

現状を知覚する意志、つまり自我がひとつしかないのか、あるいはすべての世界に自分が存在して、それぞれ独立した意思を持っているのでしょうか?

多世界解釈」の話をするとき、多くの否定派は「他世界の観測が不可能であること」を論点とします。世界がひとつであるからこそ、他の世界は観測できないのだ、と。しかし、選ばれなかった方の状態を観測できないのは「コペンハーゲン解釈」も同じですね。しかし言わんとすることはわからなくもない。

現在を認識する自我の存在が、問題をややこしくする「多世界解釈」。どのように受け止めれば良いのでしょうか。

 

多世界解釈の解釈について

さて、「多世界解釈」への疑問のひとつが、現状を認識する自我の存在でした。「なぜこの世界を選んだのか」「選ばれなかった世界の自分はどうなっているのか」。

その答えは見つかりそうにありませんが、ひとつの考え方として

「選択肢は非観測下の未来にあり、私たちは常に選びながら生きている」

というのはいかがでしょう?

いかがでしょう? と言われても困ると思いますし、「多世界解釈」の論点とはズレてしまいますが、この考え方は「引き寄せの法則」と親和性が高いように思えます。

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そして、当然あるべきもう一つの疑問。

「じゃあ、どこにあるのさ、その世界?」というのが浮かんできますよね。

大丈夫、その答えも準備されています。それが多次元の話。

ですが、ここはまた次回。