[外堀から埋める06]科学者たちの宗教観

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物理学者の宗教観

2016年に国連が発表したレポートによると、近現代の著名な科学者のうち、実に8~9割もが「神の存在を信じている」と答えたそうです。

もちろん、ここでいう「神」とは万能の唯一神や、白い髭を生やしたおじいちゃんではないでしょう。創世の神話なども同様です。しかし、科学を突き詰めれば突き詰めるほど、そこに人類の英知では理解の及ばぬ超自然の存在が感じられるのではないでしょうか。そしてその、超自然たる存在に、科学者たちは「神」を見たのでしょう。

事実、科学者が神や大いなる意志の存在を引き合いに出す例は枚挙に暇がありません。

「我々が持っている限られた手段で自然の奥深い神秘に潜入しようと試みれば、背後には微妙で無形な、表現し難い明らかな関連が存在していることに気づくのだ」(アルベルト・アインシュタイン

「すべての物質はある種の力の影響下にのみ創造と存在ができる。この力は一つの原子粒子を振動させ、最も微小な『原子太陽系』を支えている。この力の背後には意識を持つ、知恵の心が存在することを仮設しなければならない。この心こそが全ての物質の母体であるのだ」(マックス・プランク)

「(前略)我々は精神的生命体であり、霊魂(たましい)が精神世界に存在していると同時に、物質的生命体でもあり、身体と大脳が物質世界に存在していることを認識すべきだ」(ジョン・C・エクレス)

参考:6人の現代著名科学者 彼らは何故神を信じるのか

知るほどに限界と、その裏の大いなる存在が感じられるのが、科学というものなのかもしれません。

つまり、「僕は論理的だから宗教を否定します」と結論付けるのは、意外にも短絡的な考えかもしれない、ということです。

生物学者が見る神の存在

長く常識とされてきたダーウィンの進化論。学校でも習いますから、これを「紛れもない真理」と捉えている方も多いことでしょう。しかし近年、その矛盾や欠点が多く指摘されていることはご存知でしょうか?

とくに問題とされているのが進化論を真理とする証拠がない、という点。iPS細胞でおなじみの山中伸弥教授や素粒子研究の権威である益川敏英教授もこの点を論拠に、進化論に疑問を呈しています。

進化論の基本は、突然変異と自然淘汰です。

たとえばキリンの話。少し首が長めのキリンが生まれてきた。この個体は高いところの草が食べやすく、環境に適していた。その子どももまた首が長く、生存競争を優位に進められた。そうして時間をかけながら、キリンの首は徐々に伸びていった、という論。しかしキリンの祖先と言わる「シバテリウム」からキリンの誕生まで200万年程度しか経っていません。生物学的には、極めて短期間です。この期間で、果たしてそんなにも形が変わるものでしょうか?

では、突然変異で、あるとき首の長いキリンが誕生したのでしょうか?

しかし、長い首を支えるためには、強靭な四肢と血液を脳に送るポンプ機能が必要です。それが無く、ただ首が長いだけでは、サバンナで生き残るのは困難でしょう。

さらに奇妙なことがあります。

キリンの後頭部には、頭を上げ下げしても血圧が急激に変化しないよう「ワンダーネット(奇驚網)」という毛細血管が張り巡らされています。これがなければ、首が長いキリンは脳溢血を起こしてしまうのです。

しかし、この「ワンダーネット」が、キリンの仲間であるオカピにもあるのです。オカピの首は長くありません。つまりこれは、首が長くなる以前に、首が長くなっても大丈夫な機能を持っている、ということになります。誰かが意思を持ってデザインをしたのではないか、という疑問も、当然湧き上がります。

 キリンの例だけを見ると「結果から逆算しているから奇跡に思えるのだ」という反論も成り立つでしょう。首の長いキリンのいない世界では、このような議論自体が起こらないのだから、現時点から過去を考察するのは無意味であるという論です。

しかし、キリンだけではありません。私たち人間の脳が、わずか20万年で1.5倍に増えたこと、その間に脅威となる天敵もいなかったことはどうでしょう? あるいはサバンナに生きる個性的な動物たち、そして数億年も姿を変えないシーラカンスの存在。

考えるほどに、生物の進化は自然淘汰ではなく、何者かの意志が介在していると捉える方が自然に思えてきます。

山中伸弥教授は対談のなかで「これは神様にしかできない、と思うようなことがたくさんあります」と述べています。もちろんこの「神様」も、具象的な神の存在というよりも、人間の叡智の限界の比喩的意味合いが強いはずですが。

科学と宗教の間

長くなってしまいましたが、世の理を論理的に解き明かそうとする科学者たちが、科学的な意味での神、つまり人間には遠く及ばない大いなる意志の存在を感じ取っているのです。

もちろん、ここで「神様はいるんです! さあ、このツボを買ってください!」というつもりはありません。

ただ、宗教というものに忌避感を持ちがちな日本という国で、学校教育を通して詰め込まれた常識。それが思うほど揺るぎないものではない、ということだけ、ご理解頂ければと思います。

次回はようやく「引き寄せの法則」と科学について考えてみます。

[外堀から埋める05]観測者という存在

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この世界は誰かの実験場である

まず前回の復習です。理論上は高次元の存在は予見できるものの、上の次元の存在は下からは知覚することができない。たとえば、私たちが知覚できないベクトルにたった1mm移動するだけで、そこはまったく知らないパラレルワールドである、ということも否定できない。

そして今回は、その知覚できない次元、あるいはこの三次元宇宙のどこかから、私たちを観測している存在があるのではないか、という論についてです。

このへんからグッと怪しくなってきますね。誤解なきようにお断りしておくと、僕はここで「我々の世界の一部始終は、高次元の存在により観測されていたのだ!」「なんだってー!!!」というつもりはありません。やはり感覚的に納得しがたい、というのが本心です。

しかし、私たちがただ感覚的に「あり得ない」と切り捨てることを、物理学の知識を持った学者たちが、大真面目に議論していること。そしてそんな学者たちですら、「否定するに足る根拠」を示せずにいることは、覚えておくべきでしょう。

僕などが学校授業の知識程度で、「そんなのはあり得ない!」と断じてしまうのは、日々研究をする学者への冒涜であり、傲慢な考えなのではないかなと思うのです。

私たちの世界は、動物園だった!?

「動物園仮説」というものがあります。いきなりキャッチーな名前ですが、僕が考えたわけではありません。れっきとした学説です。

まず前提として「宇宙空間、あるいは高次元に知的生命が存在するなら、なぜ我々の前に姿をみせないのか」という命題があります。ノーベル賞受賞の物理学者エンリコ・フェルミが提唱したことからこれを「フェルミパラドックス」と呼びます。

しかし、そもそも宇宙人が地球に来たとしても、初来日のビートルズのように法被を来て宇宙船から降り立ち「どうも! 宇宙人です!」とはならないでしょう。

事実、

  • すでに来ていて、政府により存在が秘匿されている
  • 地球生命に擬態している
  • 地球人には認識できない生命形態である

など、さまざまな考察がなされています。そしてそんな仮説の一つに、「動物園仮説」があるのです。

読んで字のごとく、動物園のように距離を置いて観測する。私たちの地球は、その対象となっている、という説です。

たとえばケニアのサバンナで、動物保護区に指定されている地域。なかの動物たちは、それが自らの意志であることを疑いもせず、保護区のなかで生命活動を続けています。ときに自然災害で、個体数を減らす種もあるかもしれません。しかし人間はなるべくそこに手を加えず、距離を置いてあるがままの姿を観測し続けるのです。

文明の進んだ宇宙・高次元存在は、地球生命が発展する様子をただ記録しながら観察しているのです。

突飛な説とも思えますが、そもそも宇宙が地球に対してあまりに都合良くでき過ぎていることを思えば、あながち絵空事ではないかもしれません。

ちなみにこの説を発表したのは、ハーバード大学天文学者ジョン・ボールです。

私たちの世界はバーチャル空間だった!?

2016年がVR元年などといわれていましたが、そもそもこの世界すべてがコンピュータシミュレーションの内部だという「シミュレーション仮説」というものもあります。

要するに「マトリックス」の世界です。現代人にとっては、納得できないにしても理解はしやすい説だと思います。

そしてそんな荒唐無稽とも思える論が、科学者たちに大真面目に研究されているのです。

この論を提唱したのはケンブリッジ大学の教授である哲学者ニック・ボストロム。

  • 先進的文明(あるいは未来人?)によりコンピュータ・シミュレーションが構築された
  • 現在、自由意志により生きていると信じている我々は、コンピュータ・シミュレーションのなかの存在である
  • シミュレーションであることは知覚できない

という仮説です。

もちろん、そんな話を聞いて「ほぉー、そうなのか!」といきなり納得する人はいないことでしょう。しかしボストロム教授に続く多くの学者がこの説を支持します。

とりわけ「宇宙のあらゆる現象を数式で表せる」という物理学の存在が、逆にこの説を後押ししてしまうのです。ボールの転がる速度から、惑星の公転まで、すべてが数式で表せること、それはつまり、数式でシミュレーションできることを意味しているのですから。

さらにさまざまな立場からの発信も、この説の定着を後押しします。

アメリカの投資銀行であるメリルリンチは2016年、顧客向けの経済予測レポートにて「我々がバーチャルワールドに住んでいる可能性は20~50%」と発信しました。

Paypal設立、テスラモーターズ会長兼CEO、宇宙事業投資などで知られるイーロン・マスクも「我々の世界が自然なものである可能性はほとんどない」と言い続けています。

有名人が言うのだから本当なんだ、というわけではありませんが、少なくとも名前を出して発言するからには、自分なりに根拠があるはず。その重みは軽視することはできないのではないと思います。

 

次回は、この流れを受けて科学者たちの宗教観について考えてみます。

 

 

 

[外堀から埋める04]次元論と感覚について

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次元とは?

数学的定義における「次元」は非常に理解が難しい部分です。単純に数式上の関数である場合もあれば、「シュレーディンガーの猫」のような思考実験の舞台となることもあります。しかし、前項の「多世界解釈」を考える際、この次元の思考が役に立つかもしれません。

まずは基本的なお話から。私たちの生きるこの宇宙は、通常「3次元」で成り立っていると考えられていました。「0次元」は点、「1次元」は線、「2次元」は平面、「3次元」は立体です。そして「三次元」にに時間の経過の概念が加わったものが「4次元」です。

 

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なかななわかりにくいですね。パワーポイントの限界を感じてきました。

この「4次元」、つまり立体世界に時間の概念を加えたのは、かのアインシュタインです。これにより、現在私たちは「4次元」の世界に生きているということになります。ここまでは普通の話です。

しかし、もしも、私たちが「2次元」の住人だっとしたら、「3次元」を知覚することはできるでしょうか?

答えは、できません。高次元の概念というものは、そもそも知覚することが不可能なのです。

仮に一枚の紙に描かれた漫画のキャラクター「二次元大介」に意志があるとしましょう。僕はいま、その紙を机に置いて、見下ろしています。しかし二次元大介は、その視線に気づくことができません。なぜなら彼らの概念に「高さ」は存在しないからです。平面の上を縦横自由に動きながらも「高さ」なんてものがあることは、知る由もないのです。

さあ、僕はイタズラ心を起こして、その紙にインクを落としてやろうとします。インクの瓶を開けたよ! 瓶を傾けて、ほら、インクが溢れる! あー、垂れたよ、ああ紙に落ちる!

でも、二次元大介は気づきません。そしてインクが紙に落ちてはじめて、「0」から「1」に変わるがごとく、突然二次元の世界が真っ黒になるのです。

物理学、数学上の次元の考え方

というように、上の次元は認識自体が不可能なものです。ではなぜ数学や物理学の世界では、多次元という考えが出てきているのでしょうか。実はその解法は、やや逆説的な思考となります。

「1次元」である「線」の端っこの部分を見てみましょう。そこには「0次元」の点があります。「2次元」の「面」の端には「1次元」の線があります。同様に「3次元」の端は「2次元」の面です。

このように、端にあるものがひとつ下の次元であることを考えることが、高次元の定義となります。つまり端に「3次元(=立体)」があるものが「5次元(数学理論上は4次元)」というわけです。

立体が端といわれても想像がつきませんが、これが数学的な次元の考え方です。ちなみに現在提唱されている「超弦理論超ひも理論)」においては世界が「11次元」であるといわれています。

知覚できない次元の存在

「二次元大介」に私たちの存在が知覚できなかったのと同様に、私たちは上の次元を知ることができません。そこに何者かが存在して、こちらを見ているとしても、知る術はありません。しかし、理論上は上の次元というものは、たしかに存在しているのです。

ここにこそ、「量子論」の「多世界解釈」あるいは「コペンハーゲン解釈」の答えがあるのではないでしょうか。

重なり合うように存在する、と言われてもピンと来ませんし、複数の世界が平行して存在するというのも、なかなか腑に落ちるものではありません。

しかしそこに多次元的な世界があるとすれば、他の可能性はすぐそばに、しかし知覚できない場所に、いまも存在しているのでしょう。

次回は多次元の理論に基づく、「監視する他者」について考えてみます。

 

 

 

[外堀から埋める03]量子論の多世界解釈

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多世界解釈とは?

「波」と「粒」という2つの特性を同時に持つ「量子」。無理やり理解する方法として「量子は可能性の状態で重なり合って存在し、観測すると確定する」とする「コペンハーゲン解釈」が主流となっていることを前回お話しました。

しかし主流というだけで、これが明確に実証されたわけではありません。信じるに足る実験結果があり、それを解釈するとこうなるよ、という仮説です。

そして仮説は「コペンハーゲン解釈」だけではありません。地味なものからトンデモ理論まで、実にさまざまな解釈が提唱されています。そんななか、「コペンハーゲン」には及ばぬものの、それなりに支持を集めているのが「多世界解釈」です。

読んで字のごとく、「多世界」つまりパラレルワールドの存在を前提とするこの解釈。といっても、語感から想起されるほどはぶっ飛んだ説ではありません。

コペンハーゲン解釈」によると、「量子」は存在する可能性と存在しない可能性が重なっている。ならば、それを観測する人間も、「量子」を見ている(=存在)可能性と見ていない(=非存在)可能性が同時に重なっている、ということ。でも私たちの体は別に重なっていません。なぜならそれは、他の次元にある知覚できない世界であり、観測するごとに私たちはそのどれかを選んでいるのです。

つまり、多世界というワードではありますが、「量子」の世界に適用される「コペンハーゲン解釈」を、私たちの生活レベルのサイズにまで適用したのが、この「多世界解釈」というわけなのです。

図にしてみると、こんな感じです。

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多世界解釈への疑問

このように理論的には、そこまで革新的というほどでない「多世界解釈」。しかし物理学者たちが大真面目にこの解釈について議論しているというだけでも、私たちにとっては意外に思えます。

「そんな世界があるわけがない」

自らの常識に照らし合わせて、そう言ってしまうのは簡単です。しかし自分よりもずっと知見に富んだ学者が、物理的背景に即してその有無を議論している最中に、ただ感覚的に「ない」と判断してしまうのはあまりに短絡的でしょう。ない、と決めつけるに足る知識もまた、私たちは持ち合わせていないのですから。

しかし、それでもやっぱり感覚的に理解しがたい。とくにその感覚を後押しするのは、「意志」の存在ではないでしょうか。

世界が無数に枝分かれしているなら、今、このモニターを前にして、この問題について考えているあなたは、なぜこの世界を選んだのでしょうか?

そして少し前に、パソコンを開くことを選ばなかったあなたはどこに行ってしまい、今、なにをしているのでしょうか?

現状を知覚する意志、つまり自我がひとつしかないのか、あるいはすべての世界に自分が存在して、それぞれ独立した意思を持っているのでしょうか?

多世界解釈」の話をするとき、多くの否定派は「他世界の観測が不可能であること」を論点とします。世界がひとつであるからこそ、他の世界は観測できないのだ、と。しかし、選ばれなかった方の状態を観測できないのは「コペンハーゲン解釈」も同じですね。しかし言わんとすることはわからなくもない。

現在を認識する自我の存在が、問題をややこしくする「多世界解釈」。どのように受け止めれば良いのでしょうか。

 

多世界解釈の解釈について

さて、「多世界解釈」への疑問のひとつが、現状を認識する自我の存在でした。「なぜこの世界を選んだのか」「選ばれなかった世界の自分はどうなっているのか」。

その答えは見つかりそうにありませんが、ひとつの考え方として

「選択肢は非観測下の未来にあり、私たちは常に選びながら生きている」

というのはいかがでしょう?

いかがでしょう? と言われても困ると思いますし、「多世界解釈」の論点とはズレてしまいますが、この考え方は「引き寄せの法則」と親和性が高いように思えます。

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そして、当然あるべきもう一つの疑問。

「じゃあ、どこにあるのさ、その世界?」というのが浮かんできますよね。

大丈夫、その答えも準備されています。それが多次元の話。

ですが、ここはまた次回。

 

 

 

 

[外堀から埋める02]量子は複数の可能性である

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 量子論コペンハーゲン解釈

さて、前回までは「量子論」のやや観念的な、触りの部分のお話でした。今回はもう少し踏み込んで考えてみます。

非常に小さな「粒」である「量子」の世界では、従来の物理学が通用しませんでした。ではどういうところが違っていたのか。それは「量子」の存在そのものでした。

先程「粒」と表現した「量子」、しかし実験をしてみると、これが互いに干渉し合う「波」である結果を示しました。空気の振動や海の波のように、お互いにぶつかり合って、混じり合うようなデータが出たのです。ところが「なるほど、量子は波だったのか!」と今度は観測してみると、やっぱり「粒」でした。

実験結果は「波」としか思えない。しかし観測すると確かに「粒」である。

こんなわけのわからないことになってしまいました。

物理学の世界では、目に見える結果がすべてです。そこに疑いを挟む余地はありません。しかし、その結果がすでに矛盾を示している。多くの物理学者が、この不可解な現象に頭を悩ませます。

そこにひとつの仮説を立てたのが、量子論の祖であるニールス・ボーアの弟子たちでした。ボーア研究所のあるコペンハーゲンから生まれたことから「コペンハーゲン解釈」と呼ばれるこの仮説、簡単に言うと

「量子は観測していないときは複数の可能性が重ね合わせた波の状態で存在する。観測することではじめて、ひとつの状態に収束する」

というものです。簡単ではないですね。

  • 観測していないときは互いに干渉する波である。
  • 波の状態のときは「ここにある可能性」「あそこにある可能性」「やっぱこっちかもしれない可能性」「本当はそこかもしれない可能性」という無数の「ここかも?」の可能性として、複数箇所に同時に存在している。
  • 観測した瞬間、その可能性のひとつが選択されて座標が確定する。

というのが、この解釈のポイントです。ここで理解に苦しむところは、「すでに場所が確定していて、それがここにある可能性が◯◯%・・・」ではないということ。

たとえば、あなたに見えないように卵をひとつ、冷蔵庫にしまいます。あなたは考えます。まあ、普通はドアの裏側の卵ケースのところだろう。まあ6割くらいの確率だな。いや、普通にド真ん中に置くかもしれない。2割くらいだろうか。いやいや、裏をかいて野菜室かも。それとも冷凍庫か。意表をついて製氷皿とか。それぞれ0.5割としようか。

といった具合に考えるとき、卵の位置はすでに確定していますよね。もう置いた後なのですから。

しかし量子の場合、ドアの裏にも、野菜室にも、製氷皿にも、それぞれ存在している状態と存在していない状態が重なっているのです。そうしないと互いに干渉しあって波型となる理由が説明できない。

そして冷蔵庫を開けてみると、そのどこかに「もともとここにありましたけど?」みたいな顔をしてデンと居座っているわけです。

こんな曖昧模糊な理論が、現在科学の最先端と呼ばれる量子力学の世界でまかり通っているのです。

シュレーディンガーの猫が示唆すること

そんな理論の複雑さに拍車をかけるように、エルヴィン=シュレーディンガーという物理学者が、ひとつの思考実験を提示します。思考実験というのは、実行するわけではなく、頭のなかで行う実験のこと。それはこんな実験です。

 「密閉された箱の中に『量子』と『量子を検出すると毒ガスが出る装置』、それから猫を一匹入れちゃいます。じゃあ観測してないとき、猫ちゃんの運命やいかに!?」

非観測下における「量子」は複数の場所に存在と非存在の可能性が重ね合わせてあるものでした。

ではその量子が「あっちにあるかも50%」「毒ガスの検出器のとこにあるかも50%」の可能性で同時に存在しているとき、猫ちゃんの運命はどうなっているのか。

それはつまり毒ガスが出ている状態と出ていない状態の両方が、重なり合って同時に存在しているのです。よって「猫ちゃんが生きている可能性と死んでいる可能性が重なり合って同時に存在している」ということを意味します。意味しますけど、意味不明です。

だって、私たちが知っている猫は、生死の可能性が重なり合っているなんてことありませんから。シュレーディンガーの主張もそこにありました。

「見えないミクロの世界だからコペンハーゲン解釈だなんて言ってるけど、普通に見える世界に当てはめたらイミフでしょ?」

この実験には、不完全な量子力学への皮肉が込められていました。しかし図らずもこの思考実験は、ひとつの希望を提示します。

つまり、ミクロの世界と連続的に繋がっている私たちの生活そのものにも、量子論は適用され得るということ。その意味は

「この世のあらゆるものは、観測以前は可能性の状態である」

ということです。

天才数学者が残した言葉の意味

学者たちはうすうす気づき始めます。西洋的、科学的思考だけでは解明できない宇宙の深大さに。

ノーベル賞も受賞したニールス・ボーアは量子物理学と東洋哲学の類似性に気づき、晩年は東洋哲学の研究に没頭しました。

同じくノーベル賞学者であるエルヴィン・シュレーディンガーもまた、生涯ヒンドゥー教ヴェーダーンタに興味を示し続けました。ヴェーダーンタとは「宇宙の本質」と「自己の深層」が同一であると説く哲学です。

最先端の科学である量子論を研究する賢人たちが、そろって東洋哲学に救いを求めたこと、これは偶然とは思えません。

そして天才数学者ジョン・フォン・ノイマンは言うのです。

「可能性の中から状態を決定するのは、人間の心である」

 

少しだけ、科学と「引き寄せの法則」が近づいた気がしませんか。

 

[外堀から埋める01]古典物理学の限界と量子論の誕生

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 古典物理学量子論

17世紀にアイザック・ニュートン万有引力を発見してから、世界の理の中心は物理学となりました。世界は数字と数式であらわせる。物理学は地上での現象のみならず、天体の運行や宇宙誕生まで、説明してみませたのです。当時の物理学は、この世のすべてを理解できる学問だと思われていたのですね。

 

ところが19世紀になると、従来の物理学では説明のつかない事象が確認されます。その対象はミクロの世界。

物質(元素)の基となる「原子」。さらに原子を構成する「電子」と「原子核」。そして「原子核」を構成する「陽子」と「中性子」。目に見えないほど小さな「粒」の世界では、いままで万能と思われていた物理学の常識が通用しなかったのです。

 

しかしミクロの世界といっても、どれくらい小さいのでしょうか。

わかりやすい例ですと、地球に対するピンポン玉のサイズが、ピンポン玉に対する原子のサイズといわれています。

 地球:ピンポン玉 ≒ ピンポン玉:原子

 これくらい小さな世界の話。

しかし小さくても、無ではない。それは確かに存在しています。

 

閑話:原子モデルと惑星

ところで先ほどのお話。「原子」を構成するのが「原子核」と「電子」でした。

この「電子」は「原子核」の周りをぐるぐると回っています。この「電子」の数で原子の種類が決まるわけですが、それは置いておきましょう。

この「原子」や「原子核」「電子」など、非常に小さな「粒」のことを、別名で「量子」と呼ぶのです。

 

量子論の祖である理論物理学者ニールス・ボーアが導き出した原子模型があります。こんな形です。

 

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似ていますね。

そう、太陽の周りを公転する惑星です。

 

目に見えないほどミクロの世界で、それこそ私たちの身の回り、さらには私たちの体自体においても、このような運動が絶えず続いているのです。

 

そしてもう一つ、思い出して頂きたいこと。

地球に対するピンポン玉くらいの大きさが、ピンポン玉に対する原子でした。

ミクロの世界ですが、宇宙には現在わかっているだけでも地球の20万倍以上の大きさの星があります。

あるいは星ではありませんが「ヒミコ」と呼ばれる天体があります。これは太陽の400億倍の質量を持つといわれています。実に途方もない話ですね。

そしてそれらの巨大な天体から見れば地球上の活動は、私たちから見た原子の運動と変わりないかもしれません。原子の周り回る電子の上で、ミクロの人々が日々考え、生活をしているなんてロマンのあることを考えたくもなりますね。

 

 量子論引き寄せの法則

さて、話が逸れてしまいましたが、このミクロの世界のこと、従来の物理学=古典物理学では説明のつかないことを考えるのが「量子論」という学問です。

そして「引き寄せの法則」を理解する際に、この「量子論」(あるいは「量子力学」)の存在は避けては通れません。なぜなら「量子」の存在そのものが、「引き寄せ」のエネルギーと成り得るからです。

細かな説明は次回にまわしますが、この「量子」の性質を説明する有名な言葉があります。

それは20世紀最高の数学者であり、現在世にあるコンピュータを生み出した天才ジョン・フォン・ノイマン博士による言葉。

 

「無限の可能性から量子の状態を決定しているもの。それは、人間の心である」

 

そんな言葉の意味するところは? 

次回、ノイマン博士の言葉の背景と真意に迫ります。

「引き寄せの法則」概略と疑問と方法論

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 「引き寄せの法則」とは?

さて、近年何かと話題になる「引き寄せの法則」。耳にしたことがある方も多いとは思いますが、ここで簡単におさらいしてみます。

引き寄せの法則」をざっくりまとめると、

「宇宙にある絶対不変の法則。人が望んだこと、もの、事象などを自らの経験に引き寄せる。それ自体に意志はなく、良いことも悪いことも平等に引き寄せる」

というものです。

引力のように、あるいは磁力のように。

人は望んだものを引き寄せることができるのです。

はい、素晴らしいですね。

 

引き寄せの法則」に対する疑問

もちろん、突然「宇宙の法則」なんていわれても面食らいますね。怪しさマックスですね。それはおいおい考えていくとして、もう少しダイレクトな疑問についてみてみましょう。

 それはつまり現状とのギャップです。

「望んだことを引き寄せる」と言いますが、「自分の人生100点満点!」という人がどれだけいるでしょうか。むしろ「引き寄せ」に救いを求めるくらいですから、どちらかというと現状に不満のある方が多いことでしょう。

「こんなこと望んでいない」という現実が目の前にある。それが「引き寄せ」の否定につながるのです。

多少の困難であれば「試練だ」と受け止めることができるかもしれません。いくつかの本には「神は乗り越えられない試練を与えない」という言葉もみられます。

しかし、たとえば困難な病に冒された人に。不慮の事故で親しい人を亡くした人に。「それが神の試練だ」「自らが望んだことだ」なんてどうして言うことができるでしょう!

こういった疑問に対して

  • 「『引き寄せの法則』は、否定肯定を考慮しない」
  • 「現状の心の状態を引き寄せる」

という解答が示されます。

たとえば「病気になりたくない!」と強く願う場合、否定肯定のない「引き寄せの法則」は願いの主文である「病気」にだけフォーカスされてしまい、結果その現象を引き寄せてしまう。

あるいは「お金が欲しい」と願うなら、「お金が欲しいということは、現状はお金がない(=不足)ということ」として、「不足」の状態の継続を引き寄せてしまう。

 非常に面倒な話ですが、相手は法則ですから文句を言っても仕方がありません。重力に対して「重いわ!」って文句言う人はいませんよね。

 

引き寄せの法則」の方法論

というわけで「引き寄せの法則」は、ただ願うだけではダメ。少し視点を変えた方法が必要なようです。

それは

「すでに願いが叶った心の状態になる」

という方法。

健康を望むなら「毎日健康で活き活き暮らす自分」を

経済的成功を望むなら「すでに大金を得て、優雅に暮らしている自分」を

良縁を望むなら「理想のパートナーと出会って幸せに過ごす自分」を。

すでに叶ったつもりになって演じるように生きるのです。

 心豊かに、明るく、ポジティブに、安心して生きていると、

やがて心の状態に合わせて、現実の方が変わってくるというわけです。

 

それでもやっぱり残る疑問

なるほどそうか! すごいな「引き寄せの法則」!

とは、ならないですよね。なっちゃった方は、少し疑ったほうがいいですよ。変な詐欺とか引っかかっちゃいますよ。

ここまでニュートラルな立場で見てきましたが、やはり21世紀に生きる私たちとしては、「意志で現実を引き寄せる」という非科学的な話が、すんなりとは理解できないわけです。

なぜ、そんなことが起きるのか。

その理屈が腑に落ちない限りは、納得することはできないわけです。

しかし。

重力がなぜ働くのか。

これを明確に理解し、説明できる方はどれだけいるでしょうか?

光の速度は不変であること。

その理由を知る方はどれだけいるでしょうか?

理屈はわからない、けれども信じている。

 

同様に、「引き寄せの法則」を明確な根拠で否定できる方も、少ないことでしょう。

信じるに足る知識。否定するに足る知識。

これからそれらを少しずつ検証しながら、本質に近づいていければと思います。